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柴田雄一郎

略歴

1945年 東京に生まれる。
6才から絵画を始め、9才より画家・野崎利喜男氏の元に学ぶ。
野崎氏は、パリに於いてアンリ・マティスに師事し、カンヌ・ビエンナーレ国際美術展にて日本人として初めてグランプリを受賞した洋画家である。
1964年 日本大学芸術学部入学。
1967年 渡米。ニューヨーク在住、現在に至る。

個展

  • 1967年
    デ・メーナギャラリー(New York)
  • 1968年
    デ・メーナギャラリー(New York)
  • 1969年
    ヒルトンギャラリー(New York)
  • 1971年
    グリーアギャラリー(New York)
  • 1975年
    ピーター・バーマンギャラリー(New York)
  • 1975年
    アーティスト&スカルプチャーセンター(New York)
  • 1981年
    セルジオトシギャラリー(New York)
  • 1982年
    リゾーラ・ギャラリー(Rome)
  • 1985年
    ギャラリー・フェイス(東京)
    ストライプハウス美術館(東京)
  • 1988年
    ギャラリー・フェイス(東京)
  • 1991年
    フジヰ画廊モダーン(東京)
  • 1995年
    B.A.I.ギャラリー(New York)
  • 1996年
    B.A.I.ギャラリー(Barcelona)
  • 1998年
    カラートランスレーション »
  • 2008年
    モンクドックスアーバンアート(New York)
  • 2016年
    ONE DAY Exhibition(New York)

コミッション

YUICHIRO SHIBATA - 柴田雄一郎

「柴田雄一郎展」
System to Non-Conclusion Ⅱ
1988年11月22日~12月11日
ギャラリーフェイス

NON-CONCLUSIONの魅力

石川弘義
成城大学教授

柴田氏の作品の魅力はその「変化」にある。

ぼくがはじめて知ったのは「白」の時代だった。しかし、この時期にも直線から曲線への変化を氏は試みている。

そうしてその後、あの深い色と曲線をへて現在の色の時期へ、とまことに思い切った変貌をとげていく。

現代の心理学が成立する以前、本能論が全盛をきわめていたころ、人間の本質の一つに「破壊すること」をあげた心理学者がいた。それを本能とよぶかどうかは別として、破壊すること、いったん成立した秩序を別のもので置きかえることは間違いなく魅力的な作業だ。しかし自分の創った世界にこの作業をあてはめる――これは大変なエネルギーを必要とすることだろう。

柴田氏の作品は、ぼくに昔の本能論を時におもい出させてくれる。と同時にそれは創造することの原点をぼくに指し示してくれてもいる。

「柴田雄一郎展」
System to Non-Conclusion Ⅱ
1988年11月22日~12月11日
ギャラリーフェイス

柴田雄一郎の絵

東野芳明
美術評論家

柴田雄一郎。恥しながら、寡聞にしてはじめて聞く名前である。作品も、いうまでもなくはじめて見た。1967年にアメリカに渡ったというから在米21年の長きにおよび、10回近い個展を開いているという。ニューヨーク在住の43才。3年前に日本でのはじめての個展を開いたが、ぼくは見逃している。

割合とニューヨークには行く方だが、柴田雄一郎の存在を知らなかったのは、もっぱら当方の怠慢のせいにしても、ニューヨークという都会が、柴田のような(日本の作家ということではなく)作家を無数に抱えこみ、のみこんで動いている、懐のふかい都市であることを、あらためて思い知らされる。東京時代からよく知っている篠原有司男も在米20数年におよぶが、篠原によれば、最近の日本の若い連中は、彼の世代のように、ニューヨークにくらいつき、じっくりと腰をすえるということがなくなって、さっさと見学(?)しては帰ってしまうのが不思議だという。それだけトーキョーが美術家にとって、懐のふかい場所になったのなら幸だが、まだまだ、そうはいえまい。柴田の作品の、濃い霧がじわっとたまった果てに、ある澄明な世界をつむぎ出しているような、表情の深さを見ていると、日本の作家たちの、ある種のこらえ性のなさを、反射的に思ったりもした。

柴田と親しいらしい社会心理学者の石川弘義が、柴田の世界はニューヨークそのものであり、孤独に堪え、孤独を愛する、ひどくコミュニケーションしにくいニューヨークが、柴田の作品に、独自の緊張感を与えているといった意味のことを書いていたが、たしかにすべてをのみこみ、すべてをつき放す、あの非情で魅力的な都市の凍った律動が、彼の作品に影をなげかけているのは事実だろう。しかし、環境からだけ作品が生まれるのではないことはいうまでもない。まずは、じっくりと作品そのものを見なくてはならない。今回の柴田の作品には、うっすらと色彩があらわれてきているが、2、3点見ることの出来た、以前の作品は、まったくの白一色で、照明の具合、こちらの位置によって、しばらく目がなれてくると、白の中に白の形態がしずかにあらわれる、といったもので、これは一言でいえば、自己抑制的な感情のあらわれともいえるが、それ以上に、眼差しの、視覚の極限の実験のようにも思える。見える、見えない、とは何か、という検証作業が、白の画面の前で大きく開いた瞳孔の中で進行している、といおうか。

見える世界と見えない世界の域を意味する、デュシャンの極薄(アンフラマンス)の絵画表面化といえないこともない。

今回の最近作は、これに比べれば、形態が見えるし、色彩もあらわれている。しかし、全体に、白いビニールで覆ったかのように、霧がかかったように、露出過剰のフィルムのように、すべての色彩が白がかっていて、白内障の眼で見たような世界である。ここにも、見える、見えないとは何か、という検証意識が働いていて、眼差がひとつの形態、ひとつの色彩に凝縮することを妨げ、視覚を画面全体に横にひっぱり、ずらせ、拡散させる効果を生み出している。特権的な焦点を否定する、オールオーヴァの空間といってもいい。形態はといえば、四角の画面のなかに、異なった大きさの四角形が、ある場合はずれて重なりあい、ある場合は斜めから見たような梯形となってあらわれる。そして、円い輪を切り抜いた紙がよじれたような形が、画面を舞うように飛び交い、微妙に複雑なリズムを生み出している。おそらく、ここでは、正方形や円という原型的な形態が、空間のなかで、ゆっくりと傾き、しなやかに撓み、あえかに変容してゆく様が、曇ガラスを通したような、白っぽい世界の中で、観察されているのである。何かを表現する、のではなくて、眼差のたゆたう運動を培養すること――これが作者の仕事であるように思える。

 

「柴田雄一郎展」
System to Non-Conclusion Ⅲ
1991年4月8日~4月17日
フジヰ画廊

瀬木槙一(せぎ・しんいち)
昭和3年(1928)1月6日、東京生まれ。
中央大学法学部卒。
戦後の若き日に、ヨーロッパの芸術思潮に接し、芸術評論の道に入る。
同時に、浮世絵など日本の伝統芸術にも早くから着目。
新資料の発掘など実証的な研究でも声価を高める。
現在、総合美術研究所所長。東京芸術大学講師。
著作は『ピカソ』『日本美術の流出』『ビッグ・コレクター』『写楽実像』など多数。

絵画と言えば、色と形ということになるが、そう簡単に作品が創られるものではない。この色と形にしても、逆に形と色になるのかは議論になる。
マティスならば、色と形でいいだろうが、アングルならば、形と色になる。

柴田雄一郎のばあいはどうかと考えると、いっそう厄介である。というのは、この画家には、まず、非色という属性があるからである。

非色は単色(モノクローム)とは異なる。絵画は色彩であるというときの、先天的であって疑いべくもないものとしての色彩に対する否認がその絵画の根底にある。従って、それは視覚的には全面的な白、もしくは白に蔽われた色面として成立する。

第二の属性は形態に関して、可能な限り多様で変化に富むべきものとして希求される自然的な形に対する否認がやはり根底にあって、その絵画空間に出現し運動するものは積極的に選びとられたステレオタイプである。

以上見た様に、色に関しては非色、形についてはステロタイプを基本として営まれるこの画家の絵画は、伝統的観念からすれば絵画として成立する条件を全く持たないものである。マティスのように色が、アングルのように形が、という類の力点の置き方の問題ではない。

絵画が絵画であることを自己否認するその極限において創出されているこれらの作品(とあえて言わなければならないもの)は、ふしぎなことに、見るものに訴求し、魅了する力すら具えている。

それはなぜだろうか。

アンティーゼもまたテーゼの一種。あるいは特殊なテーゼという考え方があって、反対物の成立を支持することがある。裏皮のコートを、美しいとするのに似ている。

ところが困ったことに、柴田雄一郎の作品はダダではなく、反対物の算出をけっして企図していない。言葉という不自由で曖昧なものを極限駆使して規定しようと試みても、さきに述べたところの絵画が絵画であることを自己否認した極限の所産としか言いようのないものであり、その極限の境界線は名付けようがない。その向う側には芸術とはおよそ無縁のものしか存在しない。

そうした危うい見えるか見えない線上において生まれているところに、この画家の作品のスリリングな訴求力がある。とわたしには思える。

それが観衆を存立させ、そのどこに訴えるのかと言えば、知識ではなく感性であり、それもできるだけ純粋であることが望ましい。

当然であろう。ギリシア語源を持ち出すまでもなく、「美」は「感じる」という単純な行為に発し、さまざまな手続きを経て構築されて作品となるそのプロセスを始原に向って遡及するならば、行きつくところは、色と形でも、色か形かでもない未分化な地平線であり、そのぎりぎりの原点に作者と共に身を置くならば、これらの清新な作品が創出されたことが、今や充分に納得いくものとなる。〔原文〕

「毎日グラフ」
1991年5月19日
白い宇宙空間に遊泳する
神秘な曲線
独自な作風が注目された在米画家 柴田雄一郎

文 – ワシオ・トシヒコ

ニューヨークをホームグラウンドとして活躍する抽象画家、柴田雄一郎の個展が、「SYSTEM TO NON-CONCLUSION Ⅲ ’91」(宇宙的思考の統合へ)と題され、さる四月八日から十七日まで、銀座のフジヰ画廊モダーンで開催された。日本では六年ぶりということもあって、会期中、その独自な作風が注目され、話題となった。

淡いパープルやブルーやピンクなどのやわらかなフォルムで、部分的に彩色された白い平面。その上に、一筆描きとも思われる流麗な曲線による不定形が、フリーハンドでドローイングされ、浮遊している……。

画面に額を寄せてじっくり観察すると、それはまったく逆だった。ドローイングが、まず先である。それからストロークの勢いが損なわれないように、きわねて入念に淡い色塊がかすかに描かれているのだ。白を基調とする地の色面とドローイングとのわずかな明度差が、空間感を微妙に表出している。

白い宇宙空間に遊泳するミステリアスな曲線。これは西欧的造形感覚に、東洋的なカリグラフィー、すなわち、ドローイングが巧みに融合された、ある種の “コズミック・アート” ともいうべきものではなかろうか。本来的な沈黙をたっぷり含んだ作品だな、とも感じた。沈黙が一つの始原の現象、つまり、もはやそれ以上何物にも還元不能な本源的な事象であることを説いたのは、スイスの神学者マックス・ピカートである。その沈黙の背後にあり、もしも沈黙を何らかの方法で操作し得る存在がこの世にあるとすれば、造物主以外にはないだろう。

柴田雄一郎の作品には確かに、多くの沈黙が生きている。その沈黙こそ、無言のうちに過去及び未来へとつながって行くものではなかろうか。コズミック・アートと称したくなる由縁である。

絵画のなかには、見て描き手が気になる絵画と、そうでない絵画とがある。柴田雄一郎の場合、だんぜん後者だろう。

絵画が絵画として、見事に自己完結している。プライベートな夾雑物が入り込む余地など、まったくない。すべてが純粋な造形要素だけで、緊密に構築されている世界なのである。

一九四五年、東京生まれ。日本大学芸術学部に入学し、学業中途でアメリカに渡って、はや二十一年。

柴田雄一郎は、これからもますます、純度の高い、新しい独自な形象を追求し、われわれに、彼の静謐な無限の世界を広げてみせてくれるだろう。

「タウン & カントリーマガジン」
1995年, ステファン・ジャニス

画家、柴田雄一郎は、幾何学的な色彩構成、及びホワイト オン ホワイトの作品群によって、批評家から評価されるに至った。1991年、東京、フジヰ画廊モダーンにて、SYSTEM TO NON-CONCLUSION Ⅲ(結論なき結論へのシステム)を発表。シンプルな平面に螺旋形の一連のシリーズとなるSYSTEM TO NON-CONCLUSION Ⅳ;ライフの風景を今回発表。実際にこのスタイルに集中し始めたのは、1988年の事だったが、ここに至り、その集大成が発表された。

彼の初めてのショーは、ニューヨークのデ・メーナ (De Mena) ギャラリーで、22才の時である。幾何学的な色彩構成を基調としたもので、平面的で均一的な色彩とは相反する作風であった。1972年、彼は油絵でホワイト オン ホワイトの作品を描き始めた。それらは非常に繊細な構成による仕事であり、横軸より縦軸に深い広がりを与えるものであった。又、見る視点を移動させることで、絵の印象が変化するため、見る人は迷宮に迷い込んでしまったような気にさせられるのである。このスタイルは、1975年、ピーター・バーマン (Peter Berman) ギャラリーに於いて発表された。

柴田は1945年、東京に生まれる。9才より野崎画伯の元、(個人的に)美術を学ぶ。野崎画伯はパリでマティスに学び、カンヌ・ビエンナーレで日本人初のグランプリ受賞の経歴を持つ。柴田は長じて、日本大学芸術学部にて学び、現在ニューヨーク在住。

何故、この画家は “ライフの風景” と名付けたのか。彼はこのように語った。「僕の頭には作りたいものが沢山あるのですが、それらは別々の方法、別々の媒体で表現されるべきであります、しかし自分が画家としてやるからには、全く新しいやり方で表現をしたいのです。絵とは、つまるところ、線、空間、色、形です。僕が絵を見ると、それは風景のようです。僕にとって、螺旋は、自分が生まれて以来の時間を意味し、現在と未来、そして未来永劫を想わせる景色です。」

芸術家は、シグネチャーといったものを持っている。例えば、コンスタンプルには風景が、サージェントにはポートレイト、そしてドガにはかの有名なバレーダンサーというように。現代美術の分野で、こうしたシグネチャーを得ることは困難であり、そうした成功はしがたい。抽象画に於いては、 それは描写することとは異なる性質のものである。20世紀に、アンディー・ ウォーホルは、キャンベルスープの缶で成功を収め、ジャスパー・ジョーンズは、アメリカの国旗と数によって成功し、マザウェルは論理的に強い線と柔らかな線を対立させる構成により成功した。しかしながら、螺旋のシリーズは、単なるモチーフではなく、柴田によって、現代絵画の一分野として、作品を成功させている。今後、これは彼のシグネチャーとして確立されるものかもしれない。

Landscape of Life Number 3, 1994

Landscape of Life Number 3, 1994

螺旋の芸術について、柴田は、その根源はカリグラフィー(文字の表現)にあると言う。西洋に於いて12世紀初期にカリグラフィーの技術が進んだ。やがて、そのモチーフは装飾的なデザインへと変化する。柴田の場合は、装飾的なものを超えて、人間の哲学的、心理的な領域、解きがたい神秘に対しての一つの導きであり、指針でもあるようだ。この画家の描く筆のタッチには、換言するならば、幼児の描く純粋な形状、計算されていない楽観的な美しさがあり、その背景には3つの要素が在ると考えられる。1. 技術 2. 色彩 3. 画家の哲学・・・であろう。

まず、螺旋はすべてが同じ色ではない。最初から、柴田のパレット上から計算されてつけられた色彩だけではないのである。螺旋は、多くの場合最初に描かれ、そして背景との組み合わせから色が浮かび上がる。これにより螺旋は深みを帯び、見る者は多くの視点を持って作品を眺める事ができるであろう。

ホワイト オン ホワイトの形体とスタイルについて述べよう。ここには、2つの大きな黒い螺旋が、真っ白な背景に描かれている。この2つは、無限大の彼方に於いて、互いに発散流出しあっているようであり、白の背景にもう一つの白が反射しあう様相を示している。哲学的に言うならば、この芸術家は「我々が無限の彼方に辿り着こうとするならば、他の次元への旅をしない限り決してたどり着けないのではないか?」と問いを投げ掛けているようである。

YUICHIRO SHIBATA - 柴田雄一郎 90's

Locus of Time : System to Non-Conclusion IV, 1995

さらに、作品について述べよう。見る者は、この芸術家がいかにして雲のような効果を持たせて、それをカンバスに表すか、又、透視画のように何と巧みに明るい青と黒の螺旋が現れているかが目に入るだろう。ここでは “風景” がポイントであり、見る者を外側から、内側や前方へと引き込む感覚を生じさせる。アクリリック・ペイントを専らとしたこの芸術家がこれらの絵を成功させているのは、基調色を限定せずに、螺旋と反応している色と色との微妙な結びつきが大きな要因となって、人の目を魅惑させるのである。

柴田の螺旋の絵画は、すべてのものを表現しているかのように解釈する事もできる。例えば、風のエレメントとして、無から有が発生する動きを表現しているかのように。或いは音波のようにである。これらは、決して彼の生い立ちや好みと無関係ではないであろう。彼の母は、古くからの日本の楽器、琴をこなし、姉はクラシックピアノに秀でている。彼自身は、ジャズの即興的な手法に魅了され、その表現を愛していると言う。
柴田の絵、螺旋については、見る人にとって、それほど難しく考え込むことはなかろう。つまり、我々自身が自由に、個々に問いを持てば良いのである。そして未来や、宇宙での生命の存在などを心に浮かべてみることでも、彼の絵とつながるのではないだろうか。

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